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2010年4月11日 (日)

思った通りに生きよう

お詫び

シンガポールの教育制度を学びなおす機会があり、間違いに気付きました。この記事で述べた、英語と母国語を学ばせるバイリンガル教育の件です。できないものには母国語だけと書きましたが、英語だけにするようです。失礼いたしました。

またシンガポールの教育制度について、まとめ直せればよいと考えています。

 2010.6/7

 

(※宗教的な運命論を語ろうとしているのではありません。)

 

新学期が始まりました。

早稲田大学では、4月1日に入学式、4月6日から授業がスタートです。

 

新学期。新しい授業、新しい友達・先輩・後輩。

そして、

サークルの新歓。

 

とことん自分の能力の限界を思い知らされる季節でもあります。

私は本当に疲れました。

 

何だかんだ言って、限界があります。

もうすぐ20歳にもなると自分の軸を変えるなんてムリです。

 

  

てか、自分は何をしたいのか。

 

 

何なんだろうか。

それは最近は、

 

グローバルなジャーナリスト。おそらく。

海外でそこに行って初めて分かる実情を伝え、人々に画一的で自分のイメージを安堵してくれるような情報ではなく、固定概念をぶち壊すような真実を見つけ、世界を認識し直し、グローバルな目を持ってもらい、ひいては、社会をより、一つのものとして、便利で、効率的で、生産的で、有意義なものにすることであります。

 

 

しかし、これはできるのだろうか。

幼い頃から、私は身内(自分が心理的に優位に立つ者)に対しては、色々饒舌になりますが、それ以外にはシャイといいますか、抑え勝ちでありました。それもあってか、コメント力が乏しい。欠乏。

急に的確に話せないし、分かり辛いとよく言われる。

英語もあまりできないし、中国語もあまりできない。語学は自分の努力不足とも言えるが。

 

ここ最近、自分の限界というものを気付かされたのは、ジャーナリズム論の先生の話を聞いた事と、シンガポールの教育方法を知った事からである。

 

物書き、というのは才能ありきであって、どんなに方法を学んだとしても、上手くならない人は、結局一線を越えることはできない。

例えば、(この例は先生がおっしゃったことそのままですが、)偏差値の壁みたいなものだ。

数字で並べられるので、偏差値30の人は偏差値80の人を、頑張ればいつかは越え、逆転できる可能性がありそうに見える。

しかし、別にそれらの30、80という数字は、あるラインに無理矢理乗せているだけであって、本当は三次元のものを一直線の数直線上に乗せているだけである。

つまり、30と80には何の相関性もない。

 

やっぱり越えられないものは越えられない。

 

 

シンガポールの教育というのは凄まじいものがある。

(裏は取ってません。確認してないので、誤り、過去と現在の混同等あれば申し訳ないです)

 

シンガポールには、中華、タミル、マレー系それぞれの人種、言語があり、中華内でも主要なもので4つの方言がある。

つまり極々小さな国家の中に言語が6つもあるようなものなのである。

そこで登場するのが英語であり、中華系内では北京語である。

英語と母国語の2言語、ないし、英語と北京語と母国語の3言語、これを学ばなくてはいけないのである。

 

日本での英語教育を鑑みてみれば分かるように、同時に2つの全く異なる言語を学べば、一部、必ず両方ともできない落ち零れが出る。

母国語も、英語も使えない。

つまり、日本でもよくあった、文字が書けない・読めない、どころではなく、言語を使った思考ができなくなるのである。

デカセギの子どもがポルトガル語も日本語も中途半端になっているようなものである。

 

そこで、シンガポール政府が選んだ政策は、

「じゃあ、まともに勉強ができない奴は母国語だけやればいいじゃん。」

 

単純明確、至極当然。確かにそうである。

まともに思考できないなんて最悪であるから、1言語に集中させて勉強させてあげた方が、本人にとっても幸せである。

 

しかし、考えてみて欲しい。

ここ、日本であれば、日本語ができれば、日本どこでも、どんな施設でもコミュニケーションができる。

シンガポールであれば、違う。

全く別の民族が3つあり、その主要な中華系でさえも、方言が全く異なり、コミュニケーションに難が生じる。

 

そこで、底辺には英語を勉強させない。小学3・4年にテストがあり、そこで足切りを食らうと英語を教えるクラスからは外されるそうである。(また英語クラスに復帰できる救済措置もある)

それは、つまり、

「今後、自分の民族以外とコミュニケーションをとらないでいいよ。あなたには価値がないから。」

と、政府から通告されたのと同義である。

しかし、合理的であろう。思考ができないよりは相当ましである。

 

しかし、日本では絶対にできないだろう。

落ち零れには、その他の人々よりも相当な労力と、経済的・人的・時間的な負担をかける。

そして、結局、その落ち零れはどうなるのだろうか。

その投資した分、国家、社会へ貢献してくれるのだろうか。それは疑問が残る。

 

シンガポールには国立大が2つしかない。

それはなぜなら、大学で国費を投入し、教育すべきなような労働力はそれくらいで済むからである。

 

シンガポールには義務教育が存在しなかった。

国費をわざわざ投入せずとも、ほぼ皆、勉強するし、一部しない奴は別にしなけりゃいい。頭を使わない仕事もある。

また、皆の足を引っ張る者を切り捨てることができる。

 

実際、7、8人に1人優れた能力を持つ人がいれば、社会は回っていくそうだ。

とことん、合理主義を貫いた結果、リーダー層を重点的に教育し、底辺は放っておく。

 

経済発展に非常に合理的であると言えるでしょう。

 

 

(過去のものになりつつもありますが、)そんなシンガポールの教育システムが幸せなのかは別問題。

実際にそうして、結果が出ている。

1人当たりGDPも、日本はシンガポールに負けた。

シンガポールの方が数字として明らかに正しかったのである。

 

 

さあ、結局、

自分は抗えない運命に逆らって生きようとすべきなのだろうか、自然に成るがまま生きていけばよいのであろうか。

しかし、抗ってみようと、結局仏の掌であったりする訳。

 

そして、新歓ですけど、最大限近く努力したとも、

やっぱり入る人は入るし、入らない人は入らない。

そんな現実を知る。

(別に1男なんてどうでもいんだよ笑。初めから決めてるでしょ。ジャグリングみたいな特殊な場合は特に顕著に。 インカレでいらっしゃったみなさん、よろしくです。)

 

 

それに、常々思っているのですが、結局、人というのは、

1本のレールをひたすら走ってる

だけだと。

 

よくさ、いろんな局面で“選択”をし続けた結果、今の自分に至ったと言う人もいますけど。

本当に選択したのかな。ポイントはあったのか。

分かりやすい例で言えば、

頭の中に、その選択肢が浮かばなきゃ、まず選択できないでしょう。

経済的な理由で選択ができない場合もあるでしょう。

それに、自分の人種は選べないでしょう。

自分の生まれてくる、場所、時代は選べないでしょう。

 

現在、遺伝で様々なことが決まることが分かっています。

身長、体格、顔、視力、アレルギー、病気。

100%という訳にはいかなくとも、科学的にも生まれた時からある程度決まっているとはっきりしています。

 

それに、環境となったらどうでしょうか。

環境も自分では選べないでしょう。

先ほどと被りますが、家庭・時代・場所は特に分かりやすいですね。

 

一般的な日本人の子どもと、紛争地域の子どもと、土佐藩の下士の子どもと、戦国時代の農民の子ども、未来の日本の子ども。

明らかに、思い付く選択肢が違う。

この例は大げさでも、親の性格や、過ごす地域によって、考え得る選択肢が異なるのは分かって貰えるでしょう。

 

遭遇する人だって結局、遭遇するイベント・事件だって結局、

決まってるんですよ。

 

自分の意志とは無関係に、

初めの身体特徴・居場所が決まり、その後自分を変えていく環境も決まれば、

実際、何を自分は選んでいるのだろうか?

様々な局面で、いくつかの選択肢から選んでると思う。しかし、本当に選んでるか。

 

分かりますか?私が言いたいこと。昔から言ってきてますけど、なかなか分かって貰えないんですよね。

素のタネと、それを変えていく周り、これが決まってたら何の余地が残る。何も残らない。

 

 

そしたら、何が言いたいのか。

 

「運命が決まってるから、何をしても同じ。何もしなくていいや。」

そんなのは大間違いです。

 

「自分の思った通りに行動しよう。しかし、それは自分が思って決めたんじゃないよ。」

ということです。

 

全くもって不毛なことです。

 

運命が決まってるから、努力しないでいいんじゃなくて、

あなたがそこで努力するのは前もって決まってることなんだよ。

 

そういうことです。

結果としては何も変わりません。それを知ったって、知らなかったって。

あなたがそこで怠惰になろうが、知ったことじゃありません。それはそうなるべくして、そうなったのだから。

 

そもそも、自分以外の人々に本当に意志があるのか、なんて調べようがなく、もしかすれば、まやかしの可能性だってあります。

誰かに、「君、意志持ってる?」と聞き、「もちろん!何言ってんだ!」と言われるのは何の証明にもなりません。だってそれがこの世界の常識でしょう。

もしかすると、人さえも、ただの無味乾燥の環境かもしれません。

 

でも、自分だって、逆にただの環境であるのかもしれません。

何か大きなものの中にあって、それの周りに単純に付随するもの。

 

何かの中にある、というのは、物理的にという意味では全くないですが、分かりやすい喩を出せば、

 

ある生物の中にある細胞や1物質。

本人たちは、自分達が入っているのが“ある生物”であるとは知れません。単純に自分の役割を果たしていくだけです。

 

その細胞・1物質が人間。

人間の場合は、細胞・1物質より複雑そうですが、それは単純に人間が入っている“何か”がもっと複雑だからです。

 

細胞・1物質だって、その中に原子やら電子やらといろいろある訳ですから、これは分かりやすいでしょう。

 

 

じゃあ、こんな、結局、自分の意志など介在せず、ひたすら1本のレールを走る人生、どうすりゃいいんだ。

 

単純。

思った通りのことをすればいいんです。

悩んだって意味がないです。ただ、思ったことが「悩むこと」であるなら悩むしかないですが(笑

 

僕に関しては、最近、コメント力を高めようと、文章考えたり、授業中に発言したり、様々なことへ意見を持つようにしています。

もしかすると、壁があるかもしれません。一定以上、上達しないかもしれません。でも、そうだったら仕方がないのです。

自分はそういうレールを走っていた。

それだけですから。

 

4月、みなさん、目の前の限界に立ち往生している人も多いかと思います。疲れてしまった人も多いと思います。

これは自分自身へ向けてのメッセージでもありますが、

 

自分が思ったことをしましょう。努力するも怠惰になるも、思った通りにすればいいんです。

結果は変わりません。だからこそです。

思った通りに生きましょう。

それが私達に与えられた使命・・・なのかもしれません。

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お詫び追加しました

投稿: お詫び追加しました | 2010年6月 7日 (月) 16時52分

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